岸谷から鶴見駅に至る市道(旧街道)のバス停「柳町」の前広整形外科前を丘の方に登る坂道。その右隣の階段を登ると、その上は曲がりくねった坂道になり百メートルほどで、花月園競輪場の外壁に突き当たり、この道は通行止めになります。この住宅街の坂を「貝助坂」と呼んでいました。競輪場の台地を「貝助台」といい、ここに大正三年から昭和十年代に栄えた大遊園地「花月園」があってそのほぼ真ん中を突っ切る坂道からの間道がありました。昭和二十五年ごろ競輪場開設によってこの旧道は切断されてしまっています。
「鶴見の坂道」より
花月園競輪場外壁
坂の名称の「貝助」の起りは大変古く、およそ四百年前、生麦村の名主、関口八郎右衛門の先祖に関口外記助の一族と思われる貝之助という人がいて、この人がこの坂の付近に住んでいたそうです。関口家の記録によれば、小田原北条家に仕えており、もとは駿河の今川家の重臣だったといいます。戦国時代、当時は鶴見の馬場、殿山にあった寺尾城主諏訪氏(後北条家)の支配下に入り、城の南面に当るこの要害の防備に当っていたといわれ、その館がこの付近にあったので「貝助坂」とよばれるようになったそうです。寺尾城を中心に東に諏訪山(諏訪坂)、南に貝助台(貝助坂)の位置は城を守る上で重要な配置になっていたといわれています(『寺尾城百話』)。
この坂の頂は、海抜三十メートルもあり結構急な坂でした。昭和初年ごろまで生麦や岸谷の農家の人たちは、この坂を登り東寺尾、東台の広い台地にあった畑耕作に来ていました。荷物はすべて人の肩や背中で担いで運ばなければならず、それは大変な重労働を強いられたと思います。ただ坂の途中からの展望はよく、生麦の町並の先に鶴見川河口からのマツ並木、その先の海の景色は絶景で、帆掛け船が行き交い、遠く房総半島や三崎の観音崎、本牧岬を目の前に望むことができ、いっときの疲れを癒すことができたといいます。大正末年から昭和初年ごろ、この坂の途中右側辺りははマツ林になっており、海を眺め四季の花に囲まれた料亭「花香苑」(苑主は文学者長谷川時雨女史)があって、葛西善蔵など文人が多く訪れただけでなく、日本画壇の重鎮前田青邨も近くに住んでおり、そのアトリエの建物は今も残っています。
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