鶴見の坂道 その6 手枕坂(てまくらざか)

  

鶴見大学の正面辺りから左へ登り総持寺の鐘楼の前を通り、さらに穴熊稲荷の左側を子生の坂口に出る延長百八十二メートル、幅二メートルの坂。この坂は、大正六年に境内整備のため、廃坂となっています。総持寺の南の台にあったので、南台の坂とも呼ばれていたようです。その後、大正十三年十一月、その由来を惜しんで黒川荘三氏が手枕坂と命名し、旧坂のあたりに「旧蹟手枕坂」の碑を建てました。その後、いつの間にかこの碑の所在が不明となっていましたが、昭和四十八年の春ごろ、雑木や雑草に覆われていた総持寺の丘に遊歩道をつくるため整地していたところ、土に埋った「旧蹟手枕坂」と書かれた碑が発見されました。その後、この碑は鐘楼下の石段の脇に片付けられたままになっていました。

ところで、総持寺は、元享元年(一三二一)瑩山禅師によって開山された曹洞宗大本山です。初め石川県鳳至郡門前町にありましたが、明治三十一年四月十三日火災に遭い、明治四十四年好機に鶴見に移転し、再興を遂げています。かつて境内にあった竜王池は、総持寺十勝の一つに数えられ、閑寂な風致は参詣客の目を楽しませていましたが、昭和四十九年、あたかも瑩山禅師六百五十年大遠忌にあたり、埋め立てられ駐車場に変ってしまいました。しかし幸いにも鐘楼下に放置されたままになって心配されていた「旧蹟手枕坂」の碑が、ようやく陽の目をみて、駐車場裏の道下に移建されました。昔、南台の坂にあったときと同じように、ここでも子生坂に出る途中の道でしたから、不思議な因縁のように思われます。

 竜王池跡の駐車場

「旧蹟手枕坂」の碑文には――昔シ鶴見ノ南台ノ坂ニ登ル左側ニ生麦細野新六氏ノ専墓地アリ嘉永七年(一八五四)二月十六日米國人此坂ヲ下リシ時右側ニ右墓石アルヲ一見シテ手枕ヲナシタル状ヨリ手枕坂ト其称起レリ  と書かれています。これは、ペリーを乗せて神奈川に入港した米艦サスケハンナ号の乗員ヒッテンセールが、横浜青木町の岸から上陸し、途中子安の村役人海保氏方に立ち寄り、海保氏から監視兼保護案内人をつけられて、東海道の人目をさけ裏街道を子安から山手に入りました。案内人はヒッテンセールを伴って今の東台に出て、鶴見の村役人黒川氏と引きつぐためこの南台の坂を下りました。その時、ヒッテンセールが、右の方の小高いバラ路の傍らに墓石を見て、案内人宮森氏に手枕をして見せ、目をつぶり、墓石の意味をただしたものといわれます。「碑文」には次のように書かれています。  旧手枕坂ハ総持寺現境内雨宮氏碑石ノ前面ヲ横ニアリシヲ大正六年十一月、廃坂トナリ其代坂ヲ作り換今茲ニ手枕坂ト云々  大正十三年甲子十一月  なお、明治二十二年の生見尾十二勝には「南台手枕坂」と書かれています。(「鶴見の坂道」より)

ペリー提督日本遠征日記 (地球人ライブラリー)

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  • 湾曲
  • 風情
  • いわれ ☆☆☆