鶴見の坂道 その7 見返し坂(みかえしざか)

 

鶴見駅西口の豊岡通りから獅子ヶ谷方面に向かうバス道路を、月見ヶ丘に登る坂。明治五年(一八七ニ)五月七日、日本で最初の鉄道が品川・新橋間に開通しましたが、同年九月十二日には新橋・横浜間が全通して、川崎と神奈川の間に鶴見駅が設けられ、翌十三日から旅客営業が開始されました。その年の十一月、鶴見村の黒川荘三宅へ一人の役人が「鶴見の丘は京浜間随一の眺望地だと聞いているが、富士山の見えるところへ案内をたのむ」と言って訪れました。黒川氏は、鶴見停車場の向かいにある、通称お墓山に案内しようとして坂の途中までくると、駅の方から汽車の汽笛が聞えてきました。すると役人は、ふと後ろをふりむき、駅に入る汽車を見ながら、「ああこの坂は汽車を見返す坂だ」とひとりつぶやきました。役人が帰途停車場で、奉書に書いた自筆の名刺を出したのを見ると「陸軍少輔西郷従道」とあったので、黒川氏は驚いたといいます。西郷従道は、鹿児島の出身で有名な西郷隆盛実弟です。明治初年山縣有朋らと欧州を視察し、兵制を調査して帰朝、明治五年兵部省が廃止され、陸・海軍省ができると、陸軍少輔に任ぜられています。その後、海軍に転じ、海軍大臣、海軍大将に進み、元帥の称号をうけています。

元帥・西郷従道伝

元帥・西郷従道伝

鶴見駅で汽車の開通後に乗降した初めての「偉人」であったので、黒川氏は旧名主の佐久間権蔵氏と相談して、この坂を「見返し坂」と命名し、成願寺前の坂の途中住友生命(現パーライトビル)の脇に記念碑を建てました。その碑には、  麗けき秋の朝日の登るらむ 葛のうら葉を見返しの坂 鶴園  と黒川鶴園の歌が刻まれていました。現在この碑は失われてしまい、大正十三年に再建された碑が月見ヶ丘のバス停留所近くに建っています。しかし、この碑は元来セメントで造られたものでしたので、長い年月の間にいつの間にか塗装が欠け落ちて、今わずかに残存部分を残すのみとなっています。この碑は、黒川氏の友人で鶴見村三家に住んでいた吉川兼次郎氏が、明治初年ごろ、斉藤精一郎氏から当時、「西洋漆喰」と呼ばれたセメント技法を学び、これを石碑の建立に利用したものでした。斉藤精一郎氏は、天保六年(一八三五)徳川幕府の普請奉行の二男として江戸に生まれ、のち、維新後、明治四年新橋・横浜間の鉄道建設に携わり、鶴見川鉄道架設工事を竣工させています。碑の左右側面は、鶴見地域の名所地を列記した道しるべとなっていて、その往時が偲ばれます。  (右側)□中坂 天王院 大池 熊野神社 稲荷山 諏訪坂 二本木不動 白幡神社 松蔭寺里見義高入道墓  (正面)西 みかえし坂 東 見返し坂  (左側)新旧國道鶴見停車場 成願寺 子生観音 花月園 鶴見神社 総持寺 手枕坂 安養寺 英国人遭難碑 瀧坂不動 三笠園 潮見橋 杉山神社 正泉寺 慶岸寺(「鶴見の坂道」より)

 わずかに残存する記念碑  現在建っている三代目の石碑


  • 勾配 ☆☆
  • 湾曲
  • 風情 ☆☆
  • いわれ ☆☆☆