鶴見の坂道 その8 道灌坂(どうかんざか)

 

寺谷二丁目と豊岡との境の山(現・二見台)を土地の古老たちは道灌山と呼んでいます。近くに兜塚や夢見ヶ崎など太田道灌にまつわる史跡があり、この道灌山もそれらの故事に結びつけたものと思われます。 大正十年ごろまで寺谷大池の用水堀が、この道灌山の西側の裾を流れていて、その水源・寺谷大池の放水樋の痕跡がバス通り右側(豊岡の方から)の民家の裏下手に残っています。 この樋から流れ出る用水堀に沿って、橋爪病院の方から上ってきた街道が、樋のすぐ下手に架けられた土橋を渡って大池の土手の東端付近に登ると、道は右、左に曲がりながら現在の朝日新聞豊岡(現・寺尾)販売所の付近で大きく左に折れて斜めに丘陵に向って登ります。この坂道を土地の老人たちは「道灌坂」と呼んでいました。

図説 太田道潅―江戸東京を切り開いた悲劇の名将

図説 太田道潅―江戸東京を切り開いた悲劇の名将

この途中(前記新聞販売所付近)から、右手の月見ヶ丘方面に通ずる野道があり、見返し坂から総持寺に行くのに利用されました。 道灌坂を登って二見台の上に出て、東京湾を往来する大小様々の船など眺めながらニ〜三十メートルほど南東に進むと、道は左にだらだらと下り、途中から急な坂となって豊岡の方に出ました。 大正の中ごろまではこの付近は人家も大池の西側に数軒点在するだけで、池の水は黒々と静まり返り、道灌坂の途中、左右に分かれる辺りはマツやスギ・カシなどが生い茂り、鶴見の町辺りに遊びに行った若者たちが夜遅く一杯機嫌で坂を下りてくると時々狐にだまされたなどという話も伝わっています。

 豊岡方面坂下

寺谷の大池は昔から鶴見・葦穂崎方面への灌漑用水として利用されてきましたが、臨海工業地帯の発展により、田んぼは住宅に変り、稲作農家もなくなり、溜池の必要がなくなりましたので、この大池も昭和初期までには埋立てられて住宅になり、現在、旧大池の名残りとして僅かに百数十平方メートルほどの弁天池(池の中央に市杵姫命を祀る小社がある)があります。

 弁天池

鶴見駅西口の開設(大正九年)が決まると、寺谷、東寺尾方面への居住者の増加を予測し、大正八年には豊岡の十字路から二見台の頚部付近を掘り崩して切通しとし、埋立てられた大池の堤防を拡幅整備し、今日ではバスが通り、片や道灌坂は台上に住む人たちの生活道路に変りました。(「鶴見の坂道」より)

  • 勾配 ☆☆
  • 湾曲 ☆☆
  • 風情 ☆☆
  • いわれ ☆☆