鶴見の坂道 その9 昭和坂(しょうわざか)

 

大正九年(一九ニ○)、現・JR鶴見駅西口が開設されると、豊岡地区はもとより東寺尾・北寺尾一帯は台地も谷戸も急速に開発され、とくに、大正十二年の関東大震災で軟弱地盤のため多大の被害を受けた東海道線東側の住民たちは、競って西側の山手地区に住居を求めたのでこの方面の人口が急増しました。 これに対応するため、鶴見地区耕地整理組合ができて、宅地造成、道路の建設・整備が進められ、不二見台と月見ヶ丘の境辺りの尾根が「切通し」となり、豊岡から寺谷大池の堤上を通って、諏訪坂下から大坂に通じる寺谷道(大池西端)までの道路ができました。このころ、寺谷大池はすでに埋立てられ、僅かに百数十平方メートルの弁天池が残っています。 この大池西端から寺尾台地に登る道は、鬱蒼と生い茂ったマツやスギ・カシなどの間を縫うようにして、台地上の畑を耕作する寺谷戸の人たちの登り下りする小径にすぎませんでした。 昭和四、五年ごろ、元・大池堤西端から現・昭和坂上を経て北寺尾台地に至る道路が新らしく開設されました。そして、この地域の人たちは、いつとはなしにこの坂を「昭和坂」と呼ぶようになりました。昭和時代のはじめにできた坂という感じがにじみ出ています。

 弁天池
 道標  バス停

坂の登り口から左に寺谷道を百メートルほど進むと、道の右上にこの寺谷戸に古くから栄えた吉田家一族の古い石碑の建ち並ぶ屋敷墓があり、さらに、百メートルばかり進むと道からニ、三十メートルほどの丘の中腹に、寺谷熊野神社が奉祀されています。 昭和坂の中ほどに、右手、諏訪坂方面から延びてきた旧道(大山街道)が坂道を横切り、東寺尾北台を斜めに抜けて国道一号(第二京浜国道)の方に下りる急坂の途中の右側の畑やその斜面には白い貝殻が一面に散らばっています。この坂道の開設のために破壊された別所貝塚の名残りです。

 豊岡方面坂下 ] 吉田家一族屋敷墓
 寺谷熊野神社

現在、この坂道には鶴見駅を起点とする臨港バス寺谷循環線が運行されており、住民の通勤、通学に利用され、県立三ッ池公園や県立鶴見高校などを訪ねるのに便利です。(「鶴見の坂道」より)

  • 勾配 ☆☆☆
  • 湾曲
  • 風情 ☆☆
  • いわれ