鶴見の坂道 その13 旧諏訪坂(きゅうすわざか)

 

寺尾台地の北端が拳状に突出した諏訪山には、古墳時代の後期に、この地域の豪族の墳墓(円墳)が築かれました。時代は降って鎌倉時代の中ごろには幕府の有力御家人秋田城介義景の別荘がこの辺りに設けられたようです(『吾妻鑑』)。

現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵

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さらに永享年中(一四二九〜一四四一)には寺尾城主諏訪馬之助の館がこの地に築かれました(『新編武蔵風土記稿』)。それからこの地を諏訪山と呼び、登り下りする坂道を諏訪坂と呼ぶようになりました。

新編武蔵風土記稿(全13冊) 〔第4期〕 (大日本地誌大系)

新編武蔵風土記稿(全13冊) 〔第4期〕 (大日本地誌大系)

徳川時代後期から大正の半ばころまで、旧東海道鶴見橋(現鶴見川橋)の袂、三軒家から三角を経てこの坂を登り、寺尾を通って菊名方面に向った大山街道と呼ばれるこの古道は、毎年七月の大山石尊の祭礼時期には大勢の大山詣での人たちで賑ったそうです。

ホントに歩く大山街道 (未知の道シリーズ)

ホントに歩く大山街道 (未知の道シリーズ)

大正七、八年ごろ、旧諏訪坂の北側の丘陵一帯を、東京の西条軍之助という建築家が買い求めて邸宅を構え、その周辺約一町歩(約一ヘクタール)ほどを開拓して、西洋草花を主にした「民衆花壇」を設けて一般に開放しました。そのとき坂の道幅を拡げて自動車を通し、道の両側には多数のサクラを植えました。その後、京浜工業地帯の発展に伴い、この地区にも宅地造成の波が押し寄せ、諏訪館跡や、諏訪山古墳・民衆花壇は跡形もなくなり、僅かに坂の入口付近に祀られていた「馬之助鎮めの石」や「子持地蔵」(道標)などの石仏たちも、昭和六十年ごろ、丘の西側に新設された諏訪坂児童公園の一隅に移転しました。(「鶴見の坂道」より)

民衆花壇(鶴見区HPより)  馬之助鎮めの石   子持地蔵

  • 勾配 ☆☆
  • 湾曲 ☆☆
  • 風情 ☆☆
  • いわれ ☆☆☆