鶴見の坂道 その5 伊藤の坂(いとうのさか)

 

人名のついた坂も珍しい。総持寺の鐘楼のある山、三宝荒神の裏側を渋谷病院(現在の鶴見西口病院)に下る鉤の手の曲線、狭いうえに急勾配なこの坂を伊藤の坂と呼んでいます。名称の起りは、大正七年ごろ、現在の富士電機、第六芙蓉寮(現存せず?)一帯に伊藤吉三郎という豪商が住んでいました。住所は生見尾村字鶴見二見台、『生見尾村誌』によると「大正八年七月三十一日、本村居住タル縁故ヲ以テ生見尾小学校児童ノ慰藉奨学ノ事業トシテ金壱千円ヲ寄付セラル、本村当事者ハ氏ノ奇特ノ美挙ヲ徳トシ乃チ生見尾奨学金ヲ起シ以テ氏ノ志ニ副フルニ努メタリ。」と記されています。現在、東台小学校に「頌徳碑」が建っています。

東寺尾の荒立に居住していた故・持丸大輔氏の日記、大正八年八月二十九日の項に「伊藤邸宅は広く洋風造りのモダンな家で、猛犬が二、三匹いる。伊藤の坂を通る人たち、ために大いにいためられる。夜殊に怖ろし。吼えた果てに出て来て飛びつく。『伊藤の坂』と言えば、そのこわさ、三才児も知る。果てはだれ一人避けて通る者なし。(手枕坂の代わりに総持寺の鐘楼に沿い、総持寺前に下る。)夏、この犬少し穏かとなれば、八月の末、夏休みも終わりとなれば、弟妹と鶴見へ活動写真(映画)を見に行った。帰途、伊藤の坂で犬吠ゆ。出てきた。弟妹を先に走らせ、己れシンガリを務む。走るわけにもゆかず、案じて止まる弟妹に早く行けと怒鳴る。ためにドキドキ心臓騒ぐ。犬め尻を突く。怖ろしかった。…」当時の情景が浮かんできます。

この坂を下ると岸谷から鶴見への街道、JR東海道、京浜東北鶴見線の電車が目の前を轟々と走り去って行きます。しかし、僅か百メートルも行くとうそのように静かな坂に入ってしまうのです。この台地に居住する人たちの生活道。しかし、この坂道は、大正六年、総持寺の鐘楼の前を鶴見に下る手枕坂が寺内に取入れられ廃坂となり、その代わりに寺境に沿って造られたものです。この坂の左側の南側台地を「八幡台」と呼びますが、それは、台地の南側に八幡神社が祀られているからです。この台地、海抜三十五メートルもあり、ここからの展望はすばらしく、鶴見の町全景のほか、鶴見川の先、下野谷、潮田一帯さらに工場地帯とパノラマが広がります。昭和十年ごろまで畑だったこの台地から横浜港で行われた観艦式のイベントを座って見ようと、筵を持って大勢の見学者が訪れてきました。江戸時代から明治にかけて選ばれた鶴見八景の中に、「八幡神社の帰帆」・「八幡山の月波」と謳われた名所があります。周囲に大きな建物もなく鶴見川の先、横浜港まで一望できたこの坂の辺りが、それに当るのではないかと思われます。(「鶴見の坂道」より)

  • 勾配 ☆☆☆
  • 湾曲 ☆☆☆
  • 風情 ☆☆
  • いわれ ☆☆