鶴見の坂道 その2 台の坂(でいのさか)

 

岸谷一丁目と三丁目の境にある岸谷派出所(注:現在はありません)、その脇の狭い坂を台の坂と呼んでいます。派出所前の信号、十字路を左に曲がればバス通り、曲がりくねりの多い市道(旧道)国道の手前、岸谷二丁目バス停付近に岸谷の二ツ池(泉池、新池)が昭和十年ごろまでありました。右の谷戸に入れば岸谷プール、昔、房野池があったところで、昭和六年ごろまでショウブで有名な三笠園があったところです。

谷戸の中ほどから入るこの坂道は、昔から生麦、岸谷方面より東寺尾、東台、北寺尾、末吉、諏訪坂方面に至る丘陵状の街道で、子生坂からの道と合流していました。海抜四十メートルの台地上は家一軒ない広々とした畑で、陸稲や麦の他、野菜の産地でした。とくに大正から昭和初年にかけてはウリ、スイカ、イチゴなどが栽培され、秋には一面、寺尾大根の畑になり、路傍には大根の肥料にする下肥の肥溜槽がいくつも並んでいました。

この辺りでは高台を「タカデー」と呼び、岸谷や飯山、荒立谷戸の農家の人たちがこの「高台(たかでい)」を耕作していました。とくに台の坂は岸谷の人たちが通った坂で、登り口から上までは三百五十メートルもあり、ある人は「うなぎ坂」と呼びました。くねくねと曲がった坂をそういったのでしょう。この坂で肥料を積んだ荷車を押し上げるには家族全員の労力奉仕を必要としました。登り切った右側台地を稲荷台、坂の上辺りを昔は出口台といっていたようです。東台は明治になってから名付けられた地名です。

台の坂は、潅木が茂りトンネルのような暗い坂道で、木々の間からは谷戸の房野の池や、遠くの町並が望見できました。坂の上、東台三ー三の十字路の角に道しるべ石がありました。明治三十六年十二月の建立で、施主は東寺尾の熊沢錠吉氏、大正二年には生見尾村村長になった人です。東台の辻にあったこの石には、「北は、溝ノ口三里、末吉橋一里、末吉不動二十五町。南は、横浜市二里、神奈川町壱里、岸弁財天八丁、東は川崎町江、鶴見ステーション江、子生観音江。西は、神奈川村、義高お入道。」と細かく記され、当時の庶民信仰の対象となる寺社祠堂への道が指示されている点は注目されます。

このあたりに道しるべ石があったと思われる

この台地に昭和四年、生見尾小学校から分かれた東台小学校が開校され、岸谷方面の学童にはこの長い坂道が通学路になっていました。子供たちは坂の途中の雑木林の山林(今の日石住宅)に入り野兎を捕るワナを仕掛け、翌日、また立ち寄るなど道草をしながら通ったものです。学校が出来た昭和初年ごろより、この台地上に新しい住宅が建ち始め、台の坂も人通りが多くなっていきました。(「鶴見の坂道」より)

  • 勾配 ☆☆☆
  • 湾曲 ☆☆☆ 
  • 風情 ☆☆
  • いわれ ☆☆