鶴見の坂道 その4 子生坂(こいけざか)

 

花月園競輪場の右隣に子生山東福寺があります。寺に入る脇の坂を子生坂といい、東福寺への参道の坂ではなく、古くから鶴見、生麦方面から東寺尾、東台・中台を経て、諏訪坂、末吉、北寺尾に至る鶴見の丘陵地帯を南北につらぬく街道でした。坂の名は、寺の山号をとった珍しいものです。その由来をたどると、鎌倉時代建武元年(一三三四)鶴見郷寺尾の古図に「小池堂」と記されており、これがのちに子生山東福寺になったそうです。この寺は古来子育観音として名高く、伝えるところによると、「平安時代の寛治元年(一〇八七)京都醍醐寺の勝覚上人が作った如意輪観音を大阪湾の海中に投じ祈誓して曰く、尊像波に従い有縁の地に至り広く衆生を済度し給え、と、以来久しく待つとき、武州都留見の浦に流れつき、上人その地に来りて山端にお堂を建て像を祀ったという。」

 東福寺山門

この時の堀川天皇に皇子がさずからず憂いていたところ、勝覚僧正の弟子・勝栄が、東福寺の観音にお祈りすれば必ず子供がさずかるであろうと、お告げを受けました。そこで、康和二年(一一〇〇)、天皇が藤原道房を勅使として誓願されたところ、この願いがかなって三年後に皇子が誕生されています。この方が鳥羽天皇で、長治元年(一一〇四)天皇から子生山東福寺の号と宸筆の勅額を賜りました。それ以来、子育観音として広く知られるようになり、今でも子供が欲しい人や、子供が丈夫に育つよう願う参詣者が遠く各地から訪れています。江戸時代にはとくに参詣者が多く、門前には子育まんじゅうが売られ、鶴見の名物の一つに数えられました。とくに大正三年から昭和十年代にかけて、花月園遊園地ができてからはこの坂道の沿道にまんじゅうを売る店が軒を並べ大変賑わったものです。

鳥羽天皇実録 (天皇皇族実録)

鳥羽天皇実録 (天皇皇族実録)

また、坂左側の谷戸には花月園当事、本家茶屋やホテルもでき、当事から次第に坂の上の八幡台、子生台と称する東台にも住宅が建ち始めてきました。坂の登り口には、明治二十七年から大正末年まで生見尾小学校があって、東寺尾、寺谷方面の学童たちにはこの坂が唯一の通学路でした。また、大正から昭和初年のかけて東台、中台一帯は「寺尾大根」の産地で、農家の人たちは大根を荷車で積んでこの坂道を下り、坂の下を流れる小川で大根を洗い市場に出荷していました。当事の坂道は赤土で、車のわだちが深く掘られ滑りやすく、歩くにも大変だったよ、と古老たちは話しています。坂の下からは清水が滾々と湧き出し、生麦の人たちはこの水を桶に入れ飲み水として重宝していました。この坂も舗装され、明るくなりましたが、昔はマツ林の中にあって暗く、登り切ったところも総持寺のマツ林、途中山ツバキも茂り、昼でもうす暗い山道でした。夜道は鼻をつままれてもわからないほどで、提灯を持たなければ歩けない坂でした。(「鶴見の坂道」より)

  • 勾配 ☆☆☆
  • 湾曲 ☆☆
  • 風情 ☆☆
  • いわれ ☆☆☆